初めに
言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
(中略)
本当にいま必要なのは、名言などではない。
むしろ、平凡な一行、一言である。
だが、私は古いノートをひっぱり出して、私の「名言」を掘り出し、
ここに公表することにした。
まさに、ブレヒトの「英雄論」をなぞれば、
「名言のない時代は不幸だが、
名言を必要とする時代は、もっと不幸だ」からである。
寺山修司 『ポケットに名言を』
この本に出会ったのは、ささいなきっかけで、かっこいい理由を考えることもできない
角川文庫が出している、手ぬぐい店「かまわぬ」とのコラボ表紙がかわいくて、集めようと思っただけであった
しかも、薄くて読みやすそうだった
しかし、私はこの本、寺山修司がきっかけで、言葉の美しさに気づくことができたと思っている
昔は、「なんで勉強しなきゃいけないんだろう」とか思っていたし、本を読むのは中学生になって好きになったのであるが、オバカな女子校にいた私の周りには読書家はいなかったから、本好きってかっこいいと思っていたところも正直あった
でも、本を読むことでほかの人の考え方を知ることができる、言葉の美しさ、言葉として表現される日常のモノ・コトのきれいさに気づくようになった
(比較的最近、というか大学生になってからだけれども)
前に引用した部分は、私の名言集の表紙に書いたものである
(寺山修司にならって私も自分が好きな言葉を集める名言集を作ってみた)
自分にとっての名言とは何か、改めて考えてみると、案外偉大なものや壮大なものはない
むしろ、日常でふと感じることについて、やんわりと言葉にしてくれているもの、そんなものが多い
であるからこそ、言葉は友人にできるものなのである、そう思った
私はオバカな大学に通う学生、文章を書く力はおろか、常識も十分に備わっていないし、時事だって何も知らない
この長い夏休みもボケーっとバイトして寝てYoutube見てしかない
(勉強したい気持ちはある)
文章を書いてみたいと漠然と思っただけで、そのための勉強もする気にはならない
ただ、私は自分が思ったことを、何らかの形で残すべきなのではと思ったのである
それが、ブログであった
ただそんな理由で書いているだけなので、文章がおかしかったり、まとまりのない、しょうもない文章でも気にしないでほしい
私は私のため、私の感じ方を全く知らないだれかに見てほしい、という少しの欲望のために書いているだけなのである
ゼミの先生が「~だ」は日本語として正しくないと言っていた
だから「~である」で必ず置き換えている
「~だ」は「~である」が口語になっただけらしい
個人的に句読点は嫌いである
いちいち「。」がつくと、「終わりの地点」が文章の中にたくさんあるように見えて、私の話はまだ終わっていないぞ、と思わず突っ込みたくなるからである
私はなにかを継続すること、計画を立てること、習慣つけることが苦手である
ほかの方のブログを読んで、いいな、私も思ったことを書き留めたいと思って始めただけで、
私の気分がのらなければこの記事だけで終わるかもしれないし、一日に何個も書くかもしれないし
でも、それでいいかなと思う
続かない性格が私のものなわけで
極力がんばろうとは思うけれども