記号で言えば愛おしさのピリオド

日々アイドルに現を抜かしています

リメンバー・ミーについて

 

先日、地上波で初めてノーカットで『リメンバー・ミー』が放送されたそうな。

私はリアルタイムで見ていませんでしたが、Twitterで話題になっているのを見て、昨年自分が所属していたゼミで書いた論文のことを思い出しました。

 

私は小さい頃ディズニー・ピクサーの作品を見ることが無く(親があまり興味がないらしい)、私自身高校生くらいからキラキラした(?)フィクション作品があまり好きでなかった。

 

そんな私が『リメンバー・ミー』を見ようと思ったのは、たまたまCMを見て「色きれい」と思ったから、ただそれだけである。それに、少し調べてみたら、メキシコが舞台になっているとわかり、メキシコの装飾品や文化に興味を持った。見る前は、まさか、こんなに好きになる作品とは思っていなかった。

 

そして、これを見た時、ちょうどゼミの発表で扱う作品を探していて、見終わって「これにしよう」と即決した。

ゼミで発表とレポート作成をしたものの、それ以来レポートを人に見てもらう機会もない。今まで学校で書いてきたものの中で、1、2を争うくらい書く過程が楽しかったので、折角だからここに供養しておく。改めて読むと、文章も考察も未熟だとは感じるが、私のヒヨコ脳で必死に書いたので、良しとしよう(ポジティブ)

 

 


1.はじめに
 『リメンバー・ミー』は、ピクサー・アニメーション・スタジオによって製作されたアニメーション映画である。世界初公開は2017年11月22日、日本では2018年3月16日に公開された。
 
2.あらすじ
 主人公ミゲルは、ミュージシャンになることを夢見ている靴屋の男の子である。しかし、ミゲルの家では音楽が一切禁止されていて、ミゲルはその夢はおろか、音楽をすることさえも家族に認められていない。
 メキシコには亡くなった家族を迎え入れる行事、死者の日がある。その死者の日の朝、ミゲルは靴磨きをしに町の広場へ行き、そこで死者の日の音楽コンテストのことを知る。ミゲルは夢をかなえるためにコンテストに出ることを決意する。家からハリボテのギターをもって抜け出そうとしていたところ、ミゲルの相方的存在の野良犬ダンテがリヴェラ家(ミゲルの家族)の祭壇でいたずらをし、高祖母イメルダの写真立てが落ちて割れてしまう。ミゲルが慌ててそれを拾うと、幼少期のココ(ミゲルの曽祖母)を抱いたイメルダの写真は、横が折られていた。そこを開くと、顔の部分は破られていたが、ミゲルの住む町の伝説のミュージシャン、エルネスト・デラクルスのギターを持った男性が立っていたのである。
ミゲルは、自分の高祖父はデラクルスであると確信し、家族の反対を押し切ってミュージシャンになるべく音楽コンテストに出ようと広場に向かう。しかし、ミゲルには演奏するギターがなかった。手作りしたハリボテのギターは、家を出る際に祖母エレナに壊されてしまったからである。そこで、ミゲルは町の墓場にあるデラクルスの霊廟に忍び込み、デラクルスの伝説のギターを手に取る。そしてミゲルがそのギターを弾いた瞬間、ミゲルは生きている人間には見えないからだになってしまった。動揺したミゲルは慌てて霊廟から走り出し、追いかけてきた犬のダンテと共にリヴェラ家の墓穴に落ちてしまう。
ミゲルとダンテが落ちた先は死者の世界であった。そしてそこでミゲルは自分の先祖の骸骨たちに会う。リヴェラ家の先祖たちは慌ててミゲルを高祖母イメルダのところに連れて行く。ミゲルが訳を話すと、ミゲルが音楽好きと知ったイメルダは、音楽を二度としないという条件でミゲルを生者の国に戻そうとする。しかし、ミゲルは「音楽ができないなら戻らない」といい、野良犬ダンテと共に逃げ出す。
ミゲルは本当の先祖であるデラクルスにゆるしをもらおうと、死者の国を探し回る。彼なら自分が音楽をすることを許してくれると思ったからである。その途中、デラクルスの居場所を知っていると言う骸骨のヘクターに出会う。ヘクターはそれを教える代わりに、ミゲルが生者の国に戻ったら自分の写真を飾ることを条件に一緒に行動することになる。しかし、ヘクターは実はデラクルスの居場所を知らず、ミゲルはそのことに絶望する。しかしそこで、死者の国で行われている音楽コンテストの優勝者がデラクルスのパーティーに招かれると知り、ミゲルはヘクターと共に出場することになる。ミゲルとヘクターによる演奏はとても盛り上がり優勝確実となった。しかし、ミゲルを探していたリヴェラ家の一族に見つかってしまい、二人は会場から逃げ出す。その途中、ミゲルとヘクターは些細なことで喧嘩し、ミゲルは一人でデラクルスのパーティー会場に向かい忍び込む。そして、ミゲルはデラクルスに「自分が子孫である」と言い、デラクルスはそれを喜び歓迎する。
ミゲルとデラクルスはパーティーを楽しい時間を二人で過ごした。そして二人きりになったとき、デラクルスはミゲルにゆるしを与え、生者の国に戻そうとする。その時、ヘクターが現れ、デラクルスが生きているときにしていた悪行を暴露し始める。生前のデラクルスとヘクターは実はミュージシャンコンビとして活動しており、曲はヘクターが書いていた。世界中を回るツアーの途中、家族が恋しくなったヘクターは家に帰ると言い出した。それに怒ったデラクルスは、ヘクターの飲み物に毒を入れて彼を殺したのである。
ヘクターにすべてをばらされたデラクルスは、ヘクターを洞窟の底へと落としてしまう。洞窟の中で、ヘクターの体は徐々に消えていく。死者の国では、知っている生きた人間がその死者のことを忘れてしまうと、「二度目の死」として死者の国からも消滅してしまう。つまり、ヘクターのことを誰かが忘れかけているのである。ヘクターの「俺のココ…」という呟きを聞き、ミゲルはふと高祖母イメルダと幼いココの写った写真を取り出す。この写真に写っていた顔のちぎられた人物は、実はヘクターであった。つまり、ミゲルとヘクターは実は家族であったと、お互いに初めて知ったのである。するとそこへ、リヴェラ家の骸骨たちが二人を迎えにくる。そして夫婦であったイメルダとヘクターは久しぶりの再会を果たす。イメルダはずっと帰ってこなかったことを「家族を捨てたから」と思っていた。しかし、ヘクターが本当は家に帰ろうとしていたことをイメルダに話し、やっと誤解を解くことができた。
そしてリヴェラ家の人々はデラクルスに復讐を果たすことを決める。デラクルスのコンサート会場に到着したリヴェラ一家は、ステージ裏でデラクルスに向かって今までのすべてを話した。そして、デラクルスに奪われていたイメルダとココとヘクターの写真を取り返すべく乱闘するが、写真は途中でなくなってしまう。デラクルスはそれをいいことに、自分の生前の悪行を暴露しはじめる。しかし、こっそりとデラクルスに向けられていたカメラによってその姿が会場中に流れてしまう。それを知らずにステージに出たデラクルスは、観客から大バッシングを受け、自身が死んだ事故と同じように、落ちてきたステージ装飾の鐘に潰されてしまった。復讐を果たせて喜ぶ一家であったが、ヘクターのことをココが忘れかけているせいで、ヘクターの体が透明になっていてしまう。そこでミゲルはイメルダに許しをもらって生者の国に戻り、ママココのもとに急いで向かう。ミゲルはママココの前で、ヘクターが娘であるココのために作った曲『リメンバー・ミー』を歌う。するとママココはおもむろに引き出しからちぎられていたヘクターの顔の部分の写真を出した。ママココは歌を聴いて、父であるヘクターを思い出したのである。こうしてヘクターは消えずに済んだ。
そして翌年の死者の日、リヴェラ家の祭壇には、先祖たち、ヘクター、そして亡くなったココの写真が飾られた。リヴェラ家の家には先祖たち、ココとイメルダとヘクター親子が帰ってきた。そしてミゲルは、生者と死者がそろった家族の前で歌を披露するのであった。
 
3.死者の日
 『リメンバー・ミー』の舞台はメキシコで、伝統的なイベントである死者の日がテーマになっている。死者の日とは、メキシコで行われており、故人が生者の世界に戻ってくるのを家族が歓迎する行事である。『世界のお祭り百科』では、死者の日について次のように述べられている。
 
簡単に言えば、この期間、街は死と死後の世界の一色に染まる。店では骸骨をかたどったカラフルな砂糖菓子、ろうやキャンディでできたさまざまな種類のカタベラス(骸骨)が売られる。家族は墓地で夜を過ごし、たいてい食べ物やちょっとした飾り物を墓前に供えて、愛する者たちの魂をあたたかと迎える。11月1日(カトリック諸聖人の日)には子どもの魂が、11月2日(カトリック死者の日)には大人の魂が戻るとされる。厳粛なテーマであるにもかかわらず、人々はお祝いムードで歌い踊る。メキシコ住民の多くは、死者の魂が毎年、この世に戻ってきて愛する者のもとを訪れると信じているためだ(デイヴィ、2015年、59頁)。
 
また、デボラ・ノイスは死者の日について次のように説明する。
 
メキシコでは、生者の世界と死者の世界は、互いに行き来できる状態で共存している。死者の日はアステカ文化の死を重要視する思想と、カトリックのお祭りの日が結びついたものだが、実際には家族が集まる楽しい再会のときだ。そのため、花火が打ち上げられ、にぎやかな市場では飴細工の骸骨や棺のおもちゃ、伝統的な紙人形が売られる一方で、行事の中心部分は家族内でおこなわれる(ノイス、2014年、36-37頁)。
 
映画の中でも、実際にメキシコの人々が死者の日に行っている行為やその装飾品が登場する。その中からいくつかの例を挙げる。
 まず、オレンジのマリーゴールドは、古代で死者に対し供えられたものであり、現在の死者の日では大人の魂が家に帰るために撒かれている。これは墓からその家族の家に続く道に撒かれ、死者の魂はこれを頼りに家に帰る。また、『リメンバー・ミー』では、生者と死者の国が分離して存在している。その二つの離れた国を結んでいるのが、このマリーゴールドの花びらで作られた橋である。死者の日の夜、町に撒かれる花びらの道しるべが巨大化したかのように、死者の国から生者の国に向かうための道を形成している。また、オフレンダは、祭壇や墓に供えられた食べ物などのことである。映画の中では、死者はオフレンダを持ち帰り、死者の国へ再入国するときに入国の条件として持ち帰ったものを申請するという少しユニークで設定が描かれている。
 
4.二度目の死
 二度目の死とは、作中に出てくる死の概念である。死者の国の音楽コンテストの優勝者がデラクルスのパーティーに招かれることを知ったミゲルは、ヘクターにギターを貸してほしいと頼む。するとヘクターは、自分と同じようにいつ忘れられるかわからない骸骨がいる集落にミゲルを案内する。そこでギターを貸してとヘクターが頼んだのが、彼の友人のチチャロンである。チチャロンは今にも忘れられて消えそうであった。ヘクターがギターを貸してほしいと頼むとチチャロンは、ギターを貸す代わりに自分が好きな曲を演奏してほしい、とヘクターに言う。ヘクターがそれに応え演奏すると、チチャロンは満足し、光となって消滅する。これが二度目の死であると、ヘクターはミゲルに悲しげに説明する。また、生者に完全に忘れ去られた者は二度目の死を迎えると、誰も知らぬ世界に永遠に消えると、ヘクターはさらに付け加える。
 この作品の監督であるリー・アンクリッチは二度目の死について次のように述べている。
 
人間には”三つの死”がある、という考えを聞いた。一度目は心臓が止まった時、二度目は埋葬や火葬をされた時、三度目は人々がその人のことを忘れてしまった時だ。僕の心が最も痛んだのは、三度目の”最終的な死”だった。生きている人たちの中に、自分のことを覚えている人がもう誰も残っていない時、人は永遠に死ぬんだ。(中略)”最終的な死”という考え方が、覚えておくことがいかに重要かという、『死者の日』という祝祭の核の部分に行きつくことになる。だから『リメンバーミー』(わたしを覚えていて)という劇中で何度も歌われる歌があり、映画のタイトルもそうなんだ(「人が本当に死ぬのは忘れ去られた時…『リメンバー・ミー』の死生観」シネマトゥデイhttps://www.cinematoday.jp/news/N0099665 2018年10月6日)。
 
 また、人間の死者に対する記憶について、佐藤弘夫は次のように述べている。
 
遺体は数日のうちに朽ち始め、一年を待たずして、物質的存在としてはほとんどの部分が消滅してしまう。人がこの世に生きた証は、やがて完全に失われてしまうのである。しかし、私たちがすぐに故人を忘れ去ってしまうことはない。私たちは繰り返し死者を想起し、その面影を探し続ける。人間は亡き人物を求めることを、宿命として背負わされた存在なのである。なぜ人は、この世を去った人物を憶うことをやめないのであろうか。この問題に答えを見出すのは容易ではないが、それと関連してもう一つ注目すべき現象がある。死者の記憶が保持される期間が、一律ではないという事実である(佐藤、2015年、53頁)。
 
 人間は忘れる生き物である。どんなに大切な人でも、人間は物質としてその人を捉えられなければ、いつか記憶は薄れてしまう。このことから、日本をはじめとする世界の死者への弔いの文化が形成されたと考えられる。
 私が初めて『リメンバー・ミー』を見て感じたのは、死者の日が日本のお盆と似ているということである。旅に出た魂は年に一回家族に会いに帰ってくる。家族は先祖を迎えるためになすびやアレブリヘスといった送迎用の動物を用意し、お供えものを飾り、家族とその日を過ごす。私はこのような日本とメキシコにおける生者と死者の関係に共通性を感じた。
 また、佐藤弘夫は、日本の生者と死者の関係を取り持つ文化について次のように述べている。
 
先祖によって見守られているという認識は、いずれは自分も「ご先祖様」になって子孫を見守るようになるという確信を支える根拠となった。故人の安らかな後生は、生者にとってはとりもなおさず、自分たちの死後の安心を保証するものだった。こうした感覚を共有する社会においては、生と死は重なりあい連続していた。死者の世界は未知の暗黒世界ではなく、再びこの世に蘇るまでの休息の地だった。死は終焉ではなく、生者との新たな関係の始まりだったのである(佐藤、2015年、59頁)。
 
 作品の中で描かれている死者の国では、ヘクターのように身寄りのない骸骨であったとしても、どの骸骨も明るく陽気に過ごしていた。それは単にピクサーが死は怖くないというイメージを伝えたかっただけかもしれない。しかし、二度目の死や、ヘクターの体がココに忘れられそうになる度に消えていく描写を織り交ぜることで、大切な人を忘れてしまう恐ろしさを伝えたかったのではないであろうか。
 
5.野良犬ダンテ
 作品の中で、ミゲルの相方的存在として登場する野良犬ダンテは、メキシコ原産のメキシカン・ヘアレス・ドッグである。現地ではショロ犬という通称で親しまれている。ヘアレス・ドッグの特徴について、藤田りか子は次のように説明する。
 
ヘアレスを司る遺伝子が皮膚のみならず歯にも影響し、欠歯を起こさせることがある(藤田、2015年、252頁)。
 
 ヘアレス・ドッグのほとんどは歯が欠けており、ヘアレスという名前の通り毛がほとんど生えていない。この作品に登場するダンテも同じ特徴を持っている。
 そして、ダンテは作品の中で重要な役割を果たしており、その行動はミゲルやヘクターに大きな影響を与えている。ダンテの行動について、リー・アンクリッチは次のように述べている。
 
2人(注:ミゲルとヘクター)が一緒にいるときは、ダンテは幸せそうに暇を持て余している。でも2人が離れるとダンテは怒ってミゲルが嫌がることをするんだ(『ダンテが生まれるまで』(DVD『リメンバー・ミー』)ピクサー・アニメーション・スタジオ、2018年)。
 
 そこで私は、映画作品において「主人公の相棒的存在」として位置づけられる動物には、物語を動かす力があるのではないかと考えた。『リメンバー・ミー』でも、そう考えられる描写がいくつか挙げられる。例えば、デラクルスの霊廟でギターを盗もうとし逃げたミゲルが墓穴に落ち、その先の死者の国でリヴェラ家の先祖たちに会ったシーンである。リヴェラ家の先祖たちはミゲルを生者の国に戻す手続きをするため、死者の国の出国ゲートに連れて行く。その際ミゲルは、ゲートに繋がる花びらの橋を渡るのにためらう様子を見せる。するとダンテは、戸惑うミゲルに「自分を追いかけて」というかのように花びらの橋を躊躇なく駆けていく。そしてミゲルは慌てて追いかけ、橋を渡ることができたのである。これは、ダンテの無邪気さを表しているとも考えられるが、同時にダンテが魂の案内人として死者の国にミゲルを招き入れたとも捉えられるのではないか。
 また、私はアニメーションにおいて犬が物語の鍵として主人公の相方的存在になることが多いと考えた。例えば、ティム・バートンの『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のゼロ、やなせたかし原作『アンパンマン』のチーズなどである。彼らは時に主人公を救ったり、状況を一変させたりする。『リメンバー・ミー』のダンテも同様に、主人公の行動を左右させたり、ピンチを救ったりする。
 動物が人間に与える影響について、ハロルド・シャープは次のように述べている。
 
動物は人間よりしばしば霊的である。彼らには霊的な面での自己限定など、ほとんどないようだ。だれも動物たちにそれは変だと言ってこなかったし、言おうとする人もなかったので、動物たちは自分の能力をごく自然に使っている。あなたの犬や猫が突然、何らかの目に見えない生き物をじっと見て、部屋中追い回しながら明らかにその生き物を目で追うのを、あなたは見たことがないだろうか(シャープ、2002年、115頁)。
 
 これを踏まえて考えると、ダンテはこの動物の持つ霊的な能力を、ごく自然に使ってミゲルを進むべき道に案内していたと言えるのではないであろうか。
そして、この野良犬ダンテはメキシコの死生観に大きな役割を果たしている。メキシコのヘアレス・ドッグは映画の台詞にもあるように、「生きた精霊」「魂のガイド」と古くから言い伝えられている。それにはメキシコの文化が影響していると考えられる。また、この作品におけるヘアレス・ドッグのダンテには、アステカ神話に登場するショルトルと、『神曲』の著者ダンテと深いかかわりがある。
 
5.1.アステカ神話
 『リメンバー・ミー』は、メキシコの古代アステカ王国の言い伝えであるアステカ神話とリンクする部分が多い。実際に、監督であるリー・アンクリッチも、インタビューでアステカ神話に影響を受けたと述べている。
そのことについて、リー・アンクリッチは次のように述べている。
 
アステカ神話に”人は死ぬと旅に出る”とある。死の地”ミクトラン”へね。自力ではいけないからショロ犬が案内するんだ(『ダンテが生まれるまで』(DVD『リメンバー・ミー』)ピクサー・アニメーション・スタジオ 2018年)。
 
 ここでいうミクトランとは、元はキリスト教の概念で、死んだ人々が必ず行くことになる地底世界を表している。
メキシコにおけるミクトランへの概念について、ミラーとタウベは次のように述べている。
 
  かつてスペイン人宣教師たちが布教した際、キリスト教の地獄を現地語で地底世界をあらわす「ミ
クトラン」Mictlanと訳して説明した。しかし、永遠にミクトランに落ちると脅しても、メソアメリカの人びとにはほとんど効き目がなかった。彼らは富者も貧者も善人も悪人も、すべての魂はミクトランへ行かねばならないことをよく知っていたからである(ミラー、タウベ、2000年、215頁)。
 
 また、メキシコ中部で信じられているミクトランの概念について、ミラーとタウベは次のように述べている。
 
  征服時代、メキシコ中央部のほとんどの人びとは、天界が13層から成り、地底世界は9層に分かれているという宇宙論を信じていた。(中略)メキシコ中部では大地の表面より下の八層にはそれぞれ特有の危険があり、死者の魂はその苦難を乗り越えなければならなかった(ミラー、タウベ、2000年、215-216頁)。
 
 これらを踏まえると、メキシコで信じられている死後の世界の概念は、すべての人が地底世界ミクト
ランへ行くこと、そして地底世界はいくつもの層で構想されており、死者の魂はそれらを旅しなければ
ならないということがわかる。メキシコの人々はそれを理解しており、であるからこそ死者の日のよう
な、明るく死者を迎えるような文化ができたのではないか。
 そして、この地底世界に死者の魂を導くとされているのが、アステカ神話における犬の頭を持つ神、ショルトルである。
ショルトルについてミラーとタウベは次のように述べている。
 
メキシコ中部の神で地底世界と深いつながりを持つショロトルは、時に犬の頭を持った姿に描かれる。アステカとマヤの両方で、犬はショルトルの役割を体現するものであったらしく、主人が死後、地底世界へ入る際にその案内をし、とくに水の領域を渡る際に役立つとされた(ミラー、タウベ、2000年、66頁)。
 
 メキシコのヘアレス・ドッグが「ショロ犬」という名称で呼ばれているのは、ショルトルが由来と考えられる。一方で、ダンテが初めて出てくる場面で、祖母のエレナが「あっちへお行き」と追い払うところがある。それは、かつてショロ犬が食用として食べられていたことから起こった偏見を表しており、同時にエレナの伝統主義も表現しているのではないかと考えた。
 
5.2.『神曲
前述のアステカ神話で地底世界にも適用されている宇宙論は、ダンテ・アリギエーリの叙事詩神曲
にも登場しており、これについて住谷眞は次のように述べている。
 
神曲』は、地獄編、煉獄編、天国編の三部から構成されています。(中略)地獄は九つの圏から成っています。第一圏がリンボと呼ばれる辺土、最後の第九圏がコキュトスと呼ばれる地獄の底です。中でも第八圏はマレボルジャ(邪悪の濠)と呼ばれ、十の濠から構成されています。煉獄は、煉獄の前地で渚と麓と、そこから七つの円道とその頂上にある地上の楽園とからなっています。天国は、第一天から第十天にいたる十の天から成っています。こうして、全体が、プトレマイオスの天動説に立った階層的な宇宙観に基づき、さながらめくるめくヨーロッパの大理石でできた壮大で緻密な寺院の伽藍のような構造になっているのです (住谷、2015年、185-186頁)。
 
フィレンチェ出身の詩人ダンテによる『神曲』では、著者であるダンテ自身が、死後の世界で地獄、煉獄、天国をめぐる様子が描かれている。『リメンバー・ミー』において最終的に魂の案内人となった野良犬ダンテの名前の由来は、この『神曲』で地底世界をはじめとする死者の世界を巡ったダンテから名前をとっていると考えられる。
 これらを踏まえると、野良犬ダンテがミゲルと共に死者の国に迷いこんだ理由がわかる。アステカ神話、『神曲』とのリンクは、冥界巡りをしたダンテ・アリギエーリを重ね、ダンテが魂の案内役をするべき存在であったことを示唆しているのではないであろうか。
 
6.『千と千尋の神隠し』との共通点
 『リメンバー・ミー』の監督リー・アンクリッチとプロデューサーのダーラ・K・アンダーソンは、インタビューで次のように述べている(なお以下引用箇所では、リー・アンクリッチはLU、ダーラ・K・アンダーソンはDAと表記されている)。
 
LU:聞いてくれ。『千と千尋の神隠し』には間違いなく影響を受けたよ。僕たちは宮崎駿の映画が大好きで、僕は特に『千と千尋の神隠し』が大好きなんだ。僕は、あの映画のことを特に考えていたわけではなかったと思う。僕たちにはただ危険性が必要だった。ミゲルが危険な状態にあるということを見せたかったんだ。時間の制限があるということをね。彼は、死者の国でやるべきことをやって、逃げ出さないといけなかった。
DA:それが感じられないといけないの。直感に訴えられるものにしたかったの。
LU:もし彼がそこに長くいすぎたら、なにか危険なことが起きると感じて欲しいんだ。だから、僕たちにとって、それは彼が消えていなくなってしまう、ということじゃなかった。『千と千尋の神隠し』で彼女がそうなるようにね。それはもっと、彼が骸骨になって行くということだった。彼の体やスピリットが徐々に消えていって、中にある骸骨が見えて来るんだ。そういうことだったよ。そして、僕たちはそれをあまりに気持ちを動揺させないやり方でやろうとした(「【インタビュー】『リメンバー・ミー』リー・アンクリッチ監督 アニメーションは言葉を超えて感動を伝える」シネマカフェネット(https://www.cinemacafe.net/article/2018/03/15/55901.html)2018年3月15日)。
 
 これを踏まえて『リメンバー・ミー』を考察すると、『千と千尋の神隠し』(以下『千と千尋』)と似ている点がいくつか見受けられた。まず、上記インタビューでアンクリッチとアンダーソンが述べているように、主人公にタイムリミットがあることである。『千と千尋』では神々の世界、『リメンバー・ミー』では死者の世界で、千尋とミゲルは日の出までに元の世界に戻らなくてはならず、その時間が迫る度に体が透けていくシーンがさりげなく登場する。そして、千尋は豚になった両親を人間に戻すため、ミゲルは人間界に戻りココにヘクターを思い出してもらうために、その限られた時間を使って「異世界」を脱出するのである。
 また、どちらの映画においても一つの印象的な橋が出てくる。『千と千尋』では、商店街と油屋をつなぐ赤い橋が登場する。迷い込んだばかりで人間のにおいが残っている千尋は、息を止めて通らないと神々に存在がばれてしまう。一方『リメンバー・ミー』では、マリーゴールドの花びらの橋が、生者と死者の世界をつないでいる。そして生者の世界に写真が飾られていないヘクターがその橋を渡ろうとすると、ヘクターの骨はバラバラになり花びらの中に埋もれていく。これらの二つの橋は、どちらも違う世界同士を結んでおり、異世界の者が橋の先の世界に入ることを基本的には認めない。また上記に述べたように、古代マヤでは地底世界に入るためには最初に水を通ると信じられていた。橋は川の上に架けられることがほとんどである。『リメンバー・ミー』では、花びらの橋の下は暗闇になっており川があるかはわからないが、いずれにしても、千尋とミゲルは、神あるいは死者のいる世界を行き来するために、映画の中で印象的に描かれているそれらの橋を渡らざるを得なかった。
 また、上記で述べたように、どちらの映画にも「異世界」が出てくる。『千と千尋』では、千尋が迷い込むのは神々の国である。しかし、映画の中には、リンをはじめとする人間の姿をした女中や、千尋が銭婆のもとへ向かうときに乗る電車には影のような人間の姿が出てくる。そこで私は、神々の国であるはずなのに人間が出てくるのは、そこが死んだ魂の集まりであるからではないかと考えた。
 古川晴彦は、『千と千尋』について次のように述べている。
 
六番目の駅(六道)に千尋を送り届けるリンの存在も(であるならば六番目の駅である「沼の底」にたどり着けずに途中下車してしまう半透明の存在たちは、折口信夫の言うところの不慮の死を遂げた「未完成霊魂」ということができるかもしれない)、そしてその背後に「葬儀」と貼られる「ハレ」の空間たる油屋も、千尋が薬湯を要求するときの縄が首かけ縄に見えることも、千尋が最後に現実世界に帰還するときに「ふりむかないで」と言われることも(このことは亡くなったエウリュディケーを追って冥界を旅したオルフェウスが最後の最後でうしろを振り返ってしまったことで、妻を永久に喪う西洋の説話類型や、葬式の後にわざと遠回りをして振り返らずに帰る「野辺送り」の風習を引いているようにも思える)、死者を連想させるのである(古川、2017年、43頁)。
 
 『千と千尋』に出てくる神々の国が仮に死んだ魂の集まりであるとすれば、『リメンバー・ミー』の死者の国と共通する点がより見えてくる。その世界の人々は、ごく普通に生活をしている。しかし、地底世界の旅の途中に脱落してしまえば、片道チケットしかない電車で途中下車することになってしまうであろう。そして、旅を終えた者は永遠に時間が止まった場所、「沼の底」あるいは二度目の死を迎えた魂が向かう永遠の世界に進む。また、生きている者がその世界に入ることは本来あるべきでないことであり、それ故に時間が来たらその者は消滅してしまうのである。
 そして、私が一番重要であると考えるのは、千尋もミゲルも異空間に迷い込むことで彼ら自身に変化が生じる、ということである。千尋は、油屋で労働をすることで、徐々に自分でアクションを起こし、最終的には自分の判断と意志によって両親を取り返す。ミゲルは、音楽禁止の家庭で育つが、死者の国での先祖たちとの交流を通じて音楽をする自由を手に入れ、家族とも和解する。どちらの主人公も、突然姿をくらまし、人間界で言う「神隠し」にあっており、それによって彼らの中で新たな意識変容が起きたのである。
 一方で二つの作品において対照的なのは、家族の描かれ方である。千尋の両親は、千尋に対して何となく投げやりで、娘のムスっとした態度をそこまで気に掛ける様子もない。一方ミゲルの家庭は、家族が一緒にいること、団結することを重視しており、映画全体を見ても、最終的に「家族は大切」というテーマに結び付けていることがわかる。この二つの作品は、家族の存在については違う考えを持つようである。
 
7.「家族」とは何か
 私が『リメンバー・ミー』において重要であると考える問題は、家族についてである。『リメンバー・ミー』が公開された際の公式テーマは、「それは、時を超えて―家族をつなぐ、奇跡の歌」である。
 メキシコは家族の繋がりがとても深いと言われている。しかし、繋がりが深いからこそ、それが壁になりうることがある。実際に、音楽が好きなミゲルに対し、音楽禁止を掲げるリヴェラ家の人がそれを妨げている様子が多く描かれている。ミゲルは靴磨きをしていた演奏者に対し、自分がもしミュージシャンになったらという想像を話すが、「家族がいなければ…」と最後につぶやく。そして、リヴェラ家の強い権力者ともいえる祖母エレナは、家族という繋がりに対しての執念をたびたび言葉にしている。「家族のために家族のそばにいる、それが家族ってもん」「リヴェラ家の者は皆靴職人だ、上から下も」というセリフがその例である。また、死者の日に、夢のために音楽コンテストに出ると家族に言ったミゲルに対して一番怒りを見せたのもエレナである。ミゲルが木の板で作ったハリボテのギターを、エレナが地面にたたきつけて破壊するシーンで見せるミゲルの悲しい表情は、映画の中でも特に印象的な場面の一つである。そしてその壊されたギターは、家族の絆を崩壊させるものという象徴にも捉えられる。最終的に、ミゲルは死者の国で先祖と交流したことで音楽をすることを許されるが、それ以前のリヴェラ家のことを踏まえると、「音楽ができるようになってよかった」という感想だけでよいのか、疑問を感じた。もしミゲルが死者の国に行っていなければ、ミゲルはどうなっていたのであろうか。ミュージシャンの夢を諦め、代々引き継いでいる靴職人をしていたのではないか。家族はいつも一つで、その枠から少したりともはずれてはいけないという伝統的で半強制的な思考が、死者の日とは別にメキシコに存在していることを忘れてはいけないと私は考えた。
 
8.おわりに
 私たちにとって、死とは未知のもので、怖いというイメージがある。それは、その人あるいは自分の実体が無くなることで、死んだ後どうなるか想像ができないからである。しかし、『リメンバー・ミー』では、死後の世界を明るく表現することで、映画を観る子どもたちに「死は怖いものではない」と伝えようとしているのではないか。その一方で、作中には二度目の死のやミゲルやヘクターの体が消滅していく様子が描かれている。明るい世界観の中にさりげなくちりばめられている「消滅」が、この映画の魅力と言える。そして、ダンテという名前を使ったり、地底世界ミクトランを案内するショロ犬を登場させたりすることで、死ぬことが終わりではなく、死後も人生が続くことを表現していると考えた。
また、上記に記述したが、『リメンバー・ミー』の最大のテーマは家族である。この作品は家族が一つになることの素晴らしさを伝えようとしている。しかし私は、そうなるまでの過程をよく考えるべきであると考えた。一人の少年が夢をつかむための行動を阻んでいたのは、まぎれもなく家族である。一つになろうとすることで、大切な何かを犠牲にしなければいけないのが家族の形であるならば、それは間違っているのではないか。そのように考えると、映画の中で悪役として登場し、ミュージシャンの夢を大成したデラクルスが、夢より家族を優先したヘクターを殺してしまったことが、本当に「悪」なのか疑問に感じた。
リメンバー・ミー』では、メキシコの死者の日というテーマを通じて死、そして家族について伝えてくれており、私たちはそれを深く考えるべきではないであろうか。
 
参考文献
佐藤弘夫「記憶される死者 忘却される死者」東洋英和女学院大学死生学研究所編『死生学年報 2015 死後世界と死生観』リトン、2015年、53-70頁。
ティーブ・デイヴィ『ビジュアル版 世界のお祭り百科』(村田綾子訳)柊風舎、2015年。
住谷眞『暗い森を抜けて 神曲ものがたり』新教出版社、2015年。
デボラ・ノイス『「死」の百科事典』(千葉茂樹訳)あすなろ書房、2014年。
ハロルド・シャープ『ペットたちは死後も生きている』(小野千穂訳)日本教文社、2002年。
藤田りか子『最新 世界の犬種大図鑑』誠文堂新光社、2015年。
古川晴彦『ジブリの授業:語りえぬものたちの残響と変奏に耳を澄ます』アルファベータブックス、2017年。
松濤弘道『最新 世界の葬祭事典』雄山閣出版、2000年。
メアリー・ミラー、カール・タウベ『マヤ・アステカ神話宗教事典』東洋書林、2000年。
本村凌二監修『世界の国々と祝日―その国は何を祝っているのか―』理論社、2016年。
森山光司『メキシコ料理大全』誠文堂新光社、2015年。
「人が本当に死ぬのは忘れ去られた時…『リメンバー・ミー』の死生観」シネマトゥデイ 
(https://www.cinematoday.jp/news/N0099665 2018年10月6日)。
「【インタビュー】『リメンバー・ミー』リー・アンクリッチ監督 アニメーションは言葉を超えて感動を伝える」シネマカフェネット(https://www.cinemacafe.net/article/2018/03/15/55901.html)2018年3月15日。
DVD『リメンバー・ミーピクサー・アニメーション・スタジオ、2018年。