記号で言えば愛おしさのピリオド

日々アイドルに現を抜かしています

『82年生まれ、キムジヨン』を読んで現役女子大学生が感じたこと

 

 

私には3歳上の兄がいる。

 

兄は小さい頃から母に期待をかけられ、小学校低学年から塾に通い、そこそこのレベルの学校に進学した。

一方の私は、集中力がなく何かを続けるのが苦手で、小さい頃から勉強が出来なかった。兄と同じ塾に通ったが、成績もそんなに良くなかった。しぶしぶ受験勉強をし、偏差値別学校一覧のポスターのFランクにも載らないくらいのレベルの私立女子校に進学した。

 

兄は中学、高校、大学とエスカレーターで進学した。しかし、大学の勉強が合わず苦痛だったようで、休まず通っていたにも関わらず2回留年した。

私は中学、高校と同じ学校で過ごし、大学は自分が学びたかった学科がある、いわゆるFランクの大学に進学した。学校自体のレベルは低いが、大学の学びが楽しくて仕方なく、今までの自分からは想像できないくらい成績が伸びた。そして、ありがたいことに学校から成績優良者として給付金をいただくことになった。

 

私は、兄より勉強が出来ない。

でも、私に何も強みがない、というわけではない。絵を描くのが好きで、中学生の時全国コンクールで賞をいただいた。大学の文化祭では実行委員に所属し、幹部として役目を果たした。大学1年生の時からオープンキャンパスや学内活動に参加し、成績に加えその点が評価され、給付金をいただけることになった。こうやってやりたいことを出来ているのは、紛れもなく家族のおかげである。

 

私の家族は割と協力的だ。

小さい頃は、絵が好きな私のために道具や教材を買ったり教室に通わせてくれたりした。アイドルが好きな私のために、母はCDやDVD、グッズも買ってくれたし、パソコンや携帯も与えてくれた。今も、自由に勉強やバイトをさせてくれるし、大学院に行ってみたら、と提案してくれたのも母だ。

私自身、兄に比べて昔から期待されていなかったので(勉強や習い事の無理強いは兄ほどされなかった)、割と自由に生きてきたと思う。だからこそ、今の自分があると思うし、自分自身満足している。今こうやって自分が好きなよう生きていること、こうやって本を読んだりブログを書いたりオタクしたりすることで、自分の心は満たされている。本当に恵まれていると感じている。それに、こうやって日々何について考えて、思想を広げらている、こんな自分が好きだし満足している。私が私として生きられていてよかった、と思うのだ。

 

 

こうやって思えるのも、家族の支えがあってこそだ。

 

でも、最近、家族に対して嫌悪感が湧くことがある。

 

 

私は小さい頃から父が家にいない。母と父は仲が悪く、ずっと父は遠方に住んでいる。日中働く母の代わりに、一緒に住む母方の祖母がずっと、そして今も面倒を見てくれている。実質母子家庭みたいなものだが、母と祖母のおかげで不自由なく過ごしてきたし、むしろ割と豊かな生活をしていると思う。よく、これを知った人は「かわいそう」というような反応をするが、私は自分がかわいそうな子だと思ったことはないし、むしろこの家族でなかったら、ここまで好きに生きてこれなかったとも思っている。

 

私の母は、子どもを産んでも仕事を続けた。そして家庭においては、テレビや機器の接続とか、家具の組み立てとか、今や「父親の仕事」とされていることも、母が全てやってきた。

祖母は、10代の頃から働き家にお金を入れ、75歳になった昨年パートの仕事をやめ、初めて「無職」になった。祖母は世話好きのお人好しで、孫のため、娘のためと働き続け、日中の家事や食事の準備を全てしてくれる。

 

私の家族であるこの2人の女性は、どちらも夫と距離を取った。

詳しくは知らないが、祖母は夫(私の祖父)と離婚している。心優しい祖母が決断したのだから、祖父は相当とんでもないことをやらかしたのかもしれない。

母は私が生まれる前から、父に嫌悪感を抱いていたようだ。「あいつはこういう時も何もやらないんだよ」「家事とか全然やらないし、ご飯が勝手に出てくるのが当たり前のように思ってる男だから」母は父についてそういうことしか言わないので、父に対する私のイメージはずっとそれだ。

 

私の祖母と母はすごい。

特に祖母は、今よりも女性への偏見があったであろう時代に、フードコートにある一件の店のパートから、フードコート全体の取締役になったそうだ。母は育休を取った後、職場を変えず仕事復帰した。私から見て、祖母と母は「社会的に」抑圧されていなかったし、何にも屈することなく強く生きてきた人だ。

 

私はそんな母と祖母を見てきたからか、あまり女性が社会において苦しめられていることについて理解が出来なかった。しかし、大学でジェンダー学の授業を受けて、自分の概念が根っこからひっくり変える感覚を受けた。

 

家で過ごすのが嫌だと感じることが増えたのはそれからだ。

 

 

祖母はいつもご飯の支度をしてくれる。「手伝って」と祖母が声をかけるのは私。兄は出来上がりそうなタイミングでノロノロとやってきて、まだ支度が終わってないのに先に出来ているものを食べ始める。大皿におかずが残った時、祖母は必ず兄に声をかける。そのあと私に声をかける。母が「たまには茶碗片付けなよ」と兄に言っても、兄は知らんぷりする。祖母は「いいよ、やらせなくて」という。私が中学生のころ、母は「今日くらい茶碗洗いなさいよ」と言い、祖母も「いつかやるんだから練習しておきなさい」と言った。

 

 

なぜ、料理の手伝いの時呼ばれるのは私なのか。

なぜ、兄は皿洗いをしなくてもいいのか。

 

 

私は兄よりも成績が良いし、大学である程度の実績も残している。劣っている訳ではないのに、雑用を言いつけられるのは大体私なのだ。

 

 

 

家に限らず日常でもそういった違和感を感じるようになった。

 

私のアルバイト先のとんかつ屋に、「レディースランチ」というメニューがある。

脂肪の少ないヒレカツ、アスパラ巻、エビフライのセットだ。

先日、お年寄りの夫婦が来店し、旦那さんが「男だけどこれ食べてもいいかね」と言って、少し恥ずかしそうにレディースランチの写真を指さした。会計をして店を出る時、「今日はわがまま言って注文して悪かったね、おいしかったよ」とお辞儀をしながら帰っていった。私は「気にすることないですよ」と、ただ一言それしか言えず、ただただ切ない気持ちだった。

 

 

 

祖母は家族の日用品を買ってくる時、兄には青、私にはピンクのものを選んでくる。

洗面所のタオルの色は兄は水色だし、私のはピンク色だ。

 

私は恐ろしいことに、こういった「価値づけ」に何も思わずに今まで過ごしていた。

 

「女の子は野菜が好き」「女の子はピンクが好き」

 

誰が決めたのか。

 

私は野菜が嫌いで肉が大好きだ。私はズボンが好きだし青や黒が好きだ。

男性でも野菜が好きでピンクが好きな人はいる。

「女の子だから」「男の子だから」

この一言で苦しめられている人がこの世の中にどのくらいいるのだろう。

 

 

 

 

 

そして、私が絶対に忘れられないし忘れたくないと思ったエピソードがある。

大学1年生の頃、同じ学科で知り合ったばかりの同級生と一緒に電車で帰った。

私はメイクにあまり関心がなかったので、当時ほとんどお化粧をしていなかった。服も無地が好きで、暗い色でまとめ、ズボンにスニーカー、リュックみたいなカジュアルなものを着ていた。

彼女は私の外見をじっくり見ながら、「女の子なんだからスカートとか履いてみたら?」「お化粧しないの?ピンクのアイシャドウとか似合うと思うよ!」「リュックって邪魔だしオシャレじゃなくない?コーチとかのショルダーバックの方がかわいいよ!ほら皆持ってるやつ!」と天真爛漫に言った。

将来の話になった時、彼女は「キャリアウーマンになりたいな!営業行ってさ、オシャレなランチして。彼氏とっつかまえて結婚したらさっさと辞める!」と目をキラキラさせながら言った。

 

電車を降りて彼女と別れた後、私は虚無感というか悲しさというか、怒りではない、そういう感情だった。

悔しかった。自分の存在意義が、こんな形でズタズタにされてしまうんだ、と。

これから過ごすことになるこの広い世界では、こうやって私の好きなものが意図せず否定されてしまうのかもしれない。そう思った。

 

一番悔しかったのは、彼女は悪くないということだ。

これは誰も悪くないのだ。

 

「女の子はこう」という価値観が私以外の女の子もしくは男の子を支えてくれているかもしれない。「かわいくあることが女の子の正義」「男はかっこよくなくてはいけない」、こういった価値観は間違いでも何でもない。皆自分が思うように、好きなように生きればいいから。

 

だから、彼女が私に言ったことは、何一つ間違ってもないし、悪でもない。自分が思ったことを人に言う、当たり前のことだから。

 

でも、やっぱり悔しかった。

同い年で同じ大学にいるのに、彼女によって、いや、そういう価値観によって私は私の存在意義を揺さぶられてしまった。

彼女は彼女の言ったように生きればいい。私は私が思ったように生きる。

ただ、彼女は私にあまりにも純真な、キラキラした目で私に言うから、それが悔しかったのだ。ああ、日本はそういう社会なのかもしれない、と。

 

 

 

『キムジヨン』をカフェで読了し、その足で本屋に行ってみた。

ビジネス本のコーナーを見ていて、ふと目に入ったのが『職場の女子のトリセツ』という本だ。

 

「こんな男の言葉と行動が女性に嫌われている」

「こんな面倒な女がご機嫌になる対処法」

「女性をご機嫌にするこんな行動」

 

バカにしているのか。素直に感じた。

 

棚を変えると「女性向けエッセイ」のコーナー。

「素敵なオトナ女子になるためのルール」「モテるためのテクニック」

そんなような言葉があふれていた。

 

 

とても悲しかった。

『キムジヨン』を読んで尚更そう感じた。

 

 

キムジヨンの人生は、読んでいて自分のことのように感じる場面があった。

 

これ、私の大学の友達が読んだらどう感じるのかな。

母や祖母が読んだら何を思うのだろう。

あの日電車で一緒に帰った彼女が読んだらどういう感想を抱くのかな。

 

自分自身の感想というより、私の身の回りの人がどう感じるのか、そっちの方が気になって仕方がなかった。

『キムジヨン』には、私が感じていた「おかしなこと」がたくさん書かれていた。

この本は私の感じていたことを認めてくれた、そして他にも「おかしい」と思う人はいるんだ、という安心感を与えてくれた。

 

 

 

 

この社会はおかしい。

 

私は私として生きる権利があるのに、それを認めてようとしてくれないモノが少なくとも存在している。

 

「女だから」子どもを育てるために仕事を辞めなきゃいけないのか。

「女だから」家事は全てやらなきゃいけないのか。

「女だから」出世を望んではいけないのか。

「女だから」男性の影に隠れ、後ろから支えなければいけないのか。

 

結果的にキムジヨンは救われたのだろうか。

キムジヨンはカウンセリングを受けて救われたのか。

 

誰か1人が変わろうとしても、他の人、そして社会が変わらなければ、それはただのちっぽけな抵抗にしかならない。

私たちが訴えても訴えても、社会全体の意識が変わらないと、私たちが救われる社会は無いのかもしれない。

 

 

 

私は今まで、勉強もせずにお気楽に生きて来た。

 

今この歳になって周りを見ると、私には「不思議なこと」しか見えない。

 

これから自分が生きていく社会が、こんな「不思議なこと」で溢れてていいのか。

 

 

私はまだまだ勉強が足りないし、こうやって文章を書いてても、自分で何を言いたいか全くわからない。

ただ、『キムジヨン』を読んで、何事もよく咀嚼し、自分の脳で考え、「おかしい」「不思議だ」と思ったことは言うべきなんだ、そう思った。

 

 

そして、もし今の社会に溢れている「おかしなこと」に苦しめられている人がいるならば、そんなの気にしなくていいと言ってあげたい。

 

私はまだ未熟でミジンコみたいに小さな存在だけれど、それだけはわかるのだ。

 

 

 

『82年生まれ、キムジヨン』は私の考えを支えてくれた。

私も同じように、誰かを支えてあげられるような文章を書けるようになりたいし、全ての人が「自分らしく」生きられるような社会に貢献してみたいと思った。