コロナ疲れ、もしくは人生疲れ
私は疲れている
「何に?」、と言われると黙ってしまうが、私は疲れているのだ。
私はまだ20年ぽっちしか生きていないプータラ人間だけど、一丁前に疲れは感じる。
仕事が終わった後「今日も疲れたー」とソファにボフッとダイブする。
授業が終わって隣の席の友達と「疲れたわ」と荷物を片付けながら言い合う。
慣れない筋トレをして、火照った体と滲んだ汗と共に「疲れた」と思う。
私たちは常に何かを消費して生きている。
その結果が「疲れる」ことならば、しなければいいのに。
数ヶ月前の自分が、今のような状況になっているなんて思ってもいなかっただろう。
数ヶ月前、1月くらいに遡ってみる。
期末試験とレポートに一杯一杯だった自分。
満員電車に乗って朝から学校に向かうのは本当に嫌だ。
帰りも帰宅ラッシュに被ると、たった10分の区間でも降りるとものすごく疲れた。
今の自分は?
マスクをしたお客さんに料理を出し、会計をし、テイクアウトのお弁当を包む。
バイトは前に比べてシフト時間が格段に減ったし、お客さんが店内にいない時間も増えた。
11時頃目が覚めて、昼ごはんの時間まで布団で3度寝か4度寝する。
寝っ転がりながらあつ森で1日のノルマをこなし、筋トレをする(ここ1ヶ月で身についた習慣。脚が前よりも引き締まったから嬉しい)。
バイトがある日は早めに夜ごはんを食べて、バイト先について、暇な時間を過ごす。
家に帰ってきてお風呂に入って、スマホを3時過ぎまで見て寝る。
何もしてない。
何もしてないのに、疲れた。
今の私は正直疲労でいっぱいだ。
最近カメラロールを遡って、昔の写真を見るようになった。
数少ない友達と出かけた先で撮った写真を見ると、「私何で生きてるんだろう?」と思う。
過去の思い出を見ても、何も感じなくなってしまった。
元から過去に囚われるタイプではないけど、今までの人生を振り返ろうとするたびに、「今って何のために生きてるんだ?」と考えてしまう。
私たちは何のために生きているんだろう?
今日だって、私がした一つひとつの行動は、何のためにあることなのか?
あの日ディズニーランドに行って遊んだことは、誰のために、何のためになっていることなのか?
私が家に入ってきた虫を窓の外に出したことも、私がトイレに行ったことも、ご飯を食べたことも、友達とコンサートに行ったことも、結局何のためになっている?
どんなに私が「楽しかった」と思ったり、大切な思い出として心の中にしまっておいても、そのこと自体が何に還元されているのか?
そうやって考え始めてしまうと、私は限りなく疲れてしまう。
これは、テストで一杯一杯だった時の疲れとも、電車に乗った後の疲れでも、筋トレした時の疲れでもない。
名前がないから、コロナ疲れとでも適当につけておいてやろう。
私はもうこの疲れにこりごりしている。
自分が消費しているとは思えない何かが原因で、こんなにも疲れてしまっていたら、私の人生はお先真っ暗だ。
いつまで続くかわからないこの状況で、私がするべきことはたくさんあるけれど、本当に疲れた。
ただ、私は図太い神経を持っているので、私の本能は"これを機に頭を使え!この状況以前に問題がないとでも言うのか?"と叫んでいる。
まだ生きて生きて生きて、疲れ続けなければいけないみたいだ。